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エルンスト・ユンガー『砂時計の書』

エルンスト・ユンガー『砂時計の書』

この人が紡ぐ物語や文体が好き、というより「世界の見方」や「汲み上げ方」が好きだな、と感じる本がある。自分にとってはこの本がその原体験だった。エルンスト・ユンガー『砂時計の書』。

まず簡単に紹介しておくと、ユンガーは1895年生まれ、二十世紀ドイツの作家である。その経歴にはかなり色々あるのだが、いったん飛ばそう。本書は1954年に書かれたエッセイで、「人文・思想」棚に並ぶ一冊だ。日本では今村孝の訳で、講談社学術文庫から出ている。

では、この人の世界の見方はどんなものなのか。

①砂の山に、時間を見る

タイトルの『砂時計の書』は比喩ではない。その通り「砂時計」、および「時計」そのものを考えていく本である。なぜそんな本を書き出したのか、筆者はこう綴っていく。
失われてゆく一瞬一瞬が積もらせるこの砂の山を見ていると、時間はなるほど過ぎ去るけれどけっして消え去るのではない、ということの証のように思われ、わたしは慰めをおぼえた。時間は、どこか深部にゆたかにたくわえられてゆくのだ。

p.10

本書は全編、こうした美しい叙述に満ち溢れている。

ユンガーは砂時計へのこの美しい所感から、昔の銅版画に登場する聖者と砂時計の構図へと思索を進めていき、砂時計が静穏な気分を呼び起こすことに気づく。


② 時計の歩みに、世界を見る

序文のあと、話はすぐ砂時計には移らない。まず、「人類の歴史が砂時計に至るまで、どんな時計があったのか」を、古今数多の書籍と自身の考察をもとに辿り直していく。日時計、水時計、火時計、花時計……


例えば日時計については、「日時計学はエジプト文明においてひとつの科学だった」というところから辿っていく。

日時計学がいかに重要な役割を果たしていたかを、当時刊行された書籍のタイトルを引くことでみせる。1568年、『あらゆる日時計を、八もしくは四角形の小柱に、小円筒、円筒、円環、壁などのなかに傾斜させて、あるいは傾斜させずに製作するための概要小冊子』。
そして「日時計は晴朗な時刻しか示さない、と昔の人々は美しくいっている。」の引用で締める。


水時計は、古代ローマから辿っていく。

この時計は、とりわけ法廷で弁論時間を制限するのに用いられたという。その習慣から、「彼は私の水を盗む」や、「私は水を失う aquam perdo」(時間を空費する)などの一連の表現が生まれ、弁論の途中に記録の朗読や証人尋問が挟まるときには、「水を止める aquam sustinere」よう要求することもできたそうだ……と進んでいく。

豊富な図解も魅力である
豊富な図解も魅力である


こうして様々な時計をたどりながら、ユンガーは太陽の光を用いて計る日時計を「宇宙的時計」、地上の要素を用いる水時計を「地球的時計」に分類する。

そのうえで「歯車時計」の出現がいかに大発明だったかに進んでいく。ここに至るまでの道程はとても魅力的なので、是非体感してほしい。

ではその新たな時間観の中で、「砂時計」はいかなるものなのか?


──本書はどこまでも明晰に、ドラマチックに、一歩ずつピースを積み重ねてゆく。ユンガーの探求と叙述が進むほど、その軌跡を追って読み進めていくほど、この世界そのものの豊かさが伝わってくる。その読み味は得難い。


・・・・・


紹介はこのあたりとしよう。
最後に、気の利いた本書の言葉で紹介を締めたい。
時計について楽しく話そうと思えば、
時間をかけなければならない。

p.20


是非手にとってみてほしい。

続きは次のタブ、「内容(レポートのようなもの)」にて。

1/4:出会いとか

この本と出会ったのは、たしかコロナが流行っていたころだったと思う。

当時、「自分はぐうたらしすぎじゃないか」とよく感じていた。つまり、「時間を無駄遣いしているんじゃないか」という焦りである。とはいえ、焦ったところでスマホを眺める時間が減るわけでもない。そこで、なのか何なのか、「時間」について書かれた本を検索しはじめた。時間の大切さを噛みしめれば行動も変わるんじゃないか……ずいぶん遠回りだが、そう考えたのだろう。

しかし、いかにもなビジネス新書に「時間を大切に」と言われても、「その通りだ」と思いながらスマホでぐうたらし続ける性分である。そんななか検索結果を眺めていて、ふと見つけたのがこの本だった。

『砂時計の書』。SFでもおかしくない題だが、どうやらエッセイらしい。しかも焦点を当てるのが「砂時計」。なんてミクロな。けれどその視座は、これまた遠回りながら、自分の「時間」観や行動に響いてくれる気がしたのだ。

・・・・・


読書するにあたって、読み始める前と後で「何かが変わって見える」と、やはり嬉しくなる。今回の感想では、最初に文庫裏に書かれた文章をまず引いてみたい。

「暖かな書斎の一隅で、白い砂粒が音もなく滑り落ちていく。この静謐を、知的観想の時を、わたしたちはいつくしむ。砂時計は地球的時間の象徴である。
夜明けとともに起き、一頭の獲物を得るまで狩りをした「アド・ホック」な行動様式の忘れ形見である。
自ら作り出した歯車時計に支配される近代文明の逆説を、ドイツの文豪ユンガーは強く静かに批判する。古今の文献を駆使して語る、ユニークな宇宙論。」

文庫カバー裏

この文章を見て「あーそーゆーことね完全に理解した」となる人はいないだろう。
地球的時間とは、アド・ホックな行動様式とは、歯車時計に支配される近代文明の逆説とは。。。

しかし一冊読めば、何を言っているか理解できるようになる。

ここでその探求の全てを追うことは勿論しないが、個人的に惹かれたパートをひとつ取りあげたい。


2/4:歯車時計という「新たな拍子(時間)」

本書のハイライトは、「砂時計」が登場する前にあるように思う。「歯車時計」の誕生がいかに人類にとって画期的だったかを解き明かす思索の過程である。

先の紹介文でもふれたとおり、ユンガーはまず時計の歴史を辿ることで、日時計が代表する「宇宙的時計」、水時計が代表する「地球的時計」、この二つの分類を見出す。しかし「歯車時計」はこのどちらにも属さない。分けて引こう。

「歯車時計は、地球的時計でも宇宙的時計でもない。それは第三の時計、知性の産物であって、星辰の時間を表示するのでも地球の時間を表示するのでもない。それが表示するのは、抽象的時間、知性的時間である。それは、所与の日光や地球的要素にもとづく所与の時間ではなく、人間自身がみずからにあたえみずから引き受けた時間である」

p.78

その時間は、「歯車時計においては、均一な、均一的・周期的な運動が組みこまれ、自然の知らない新たな拍子が創りだされている」と解説する。なるほど歯車時計は宇宙とも地球とも関係ない「周期」を刻む。これを「新たな拍子」と表現したワードセンスに唸る。確かにこれは新しい、「人工的な時間」と呼べるだろう。


ユンガーはこの発明を「この別の時間とともに、わたしたちの意味での近代がはじまる」としつつ、同時に「すべてのものが機械的に進行する空間を獲得してしまったことに、西洋人の悲劇はある」※1とする。それは「人間に喪失と獲得とをもたらし、わたしたちは牢獄に住んでいるのかそれとも宮殿に住んでいるのか、という独自の懐疑をもたらした」※2……


こうした時間をめぐる文明批判は、ミヒャエル・エンデ『モモ』を連想する。時系列を整理しておくと、ユンガーは1895年生まれ、1954年に『砂時計の書』刊行。ミヒャエル・エンデは1929年生まれ、1973年に『モモ』刊行。そして両者は共にドイツの作家である。特に「決定的なことは、わたしたちの時計が時間を創造もしくは生産する機械だという事実である」という記述は、プロト・モモと呼びたくなる一文だ。


この新たな拍子たる「時間」は、世界の隅々にまで浸透しきってしまったように感じられる。感じざるを得ない。我々は自ら牢獄に囚われてしまったのか──?


3/4:歯車時計の世界に対する「砂時計」

そこで登場するのが「砂時計」である。熱いタイトル回収。

本書が優れているのは、あるひとつのものからひとつの文明批判を取りだすだけでなく、もうひとつ違うものをそこに引き寄せている点にある。視野が、世界が広い。

ここで日時計や水時計を考察してきた流れが活きてくる。ユンガーは、ラテン語から「アド・ホック(ad hoc)」、つまり「ある目的のための」行動様式という概念を持ち出す。

日時計に代表されるように、そもそも昔は不定時法(昼と夜の長さが一日を決めていた)だった。その延長で、アド・ホックな行動様式とは、パンを焼く、説教を始めるといった「行為の始まりと終わりが時間を定義する」ことである。これが昔の姿だった。

一方で、歯車時計に規定された(NOT アド・ホックな)行動様式では、「時刻が行為の始まりと終わりを定義する」。これが現代の感覚であり、牢獄である。

・・・・・


ここにきて「砂時計」の特異さが伝わる。
ここで一度、認識を過去に揃えておこう。昔の砂時計は3分固定ではなく、説教といった各行為に応じて、様々な砂時計が用意されていたのだ。

両者の世界観から砂時計を再検討してみよう。まず砂時計は、ある行為・目的のため人間がひっくり返すことで始まる(アド・ホック)。そこから規則正しく終わりの時間を示す(NOT アド・ホック)。

ここで重要なのは、その計測の始まりを、人間が司っていることである。ユンガーは過去の説教壇の逸話を披露し、その特異さをスマートに解説する。

(説教師は)熱してくると、こういって砂時計を反転させるのがつねだった。
「おや、もう一度こうしておきましょう」

p.167


つまりここでは、歯車時計の決められた時間世界を、人間の意思がアド・ホックにひっくり返しているのだ。

この視線は現代でも、現代こそ示唆に富んでいると感じる。歯車時計の世界の中で、砂時計を持ち出してみること──つまり自分で何か目的をもって「始める」、その行為に対して時間が積もってゆくという感覚──は、抽象的だが確たる価値のイメージを導いてくれるはずだ。

・・・・・


4/4:この世界で「砂時計」をひっくり返す

この記事を書くにあたって読みなおしたが、あらためて名著だなと思った。特に下記は力強い。
「時間計測というひとつの小さな領域に、わたしたちは、こんな全般的な印象を確信させられる。すなわち、わたしたちの人生はますます具体的なものに、同時にますます知性的・精神的なものになりつつあり、抽象的なものはその魔力をしだいに失いつつあるという印象である。」

p.238

さて今回は本書からひとつ分かりやすい内容を取りだし、レポートのように書き出してみた。あらためて冒頭に戻ると、この文章がある程度伝わるようになっているはずである。

「暖かな書斎の一隅で、白い砂粒が音もなく滑り落ちていく。この静謐を、知的観想の時を、わたしたちはいつくしむ。
砂時計は地球的時間の象徴である。夜明けとともに起き、一頭の獲物を得るまで狩りをした「アド・ホック」な行動様式の忘れ形見である。
自ら作り出した歯車時計に支配される近代文明の逆説を、ドイツの文豪ユンガーは強く静かに批判する。古今の文献を駆使して語る、ユニークな宇宙論。」

本書一番の魅力は、この結論や提案より、そこに至るまでの、いうなれば「世界へのアプローチ」にある。歴史を、自然を、文化を、自分の頭で辿り直していく。その過程の中で、何かが変わって見えてくる。本書でユンガーは数々の名文を残しているが、それは本人の文才以上に、「この世界が美しいから」書き出すことが出来たように感じられるのだ。こういう風に自分も在りたいなと思う。

ユンガーが本書でふれた多くの著作同様に、『砂時計の書』が出来るだけ長く残っていく、読まれていくことを願う。この記事が誰かのキッカケになれば嬉しい。

そうだ、自分はこの本について書く時間に、砂時計をひっくり返したいと思ったのだった。

(了)


※1. p.134
※2. p.78

補足、関連作品は次タブに。

  • 本書を優雅に美しく翻訳した今村孝さんにも、刊行約35年たった2026年の今、感謝を伝えたい。

  • 本書を読むと、なるほど「アド・ホック」は確かに良さそうである。
  • だが現代社会を生きる身からすると、例えば仕事が終わるまで働き続ける「残業」もアド・ホックじゃないか?と考えたりもする。
    • ここではひとつ上のメタな視点から見る必要があるだろう。「残業」という言葉自体、「定時」という時計の時刻があってはじめて成り立つものだ。残業とは、アド・ホックの顔をした歯車時計の時間なのである。
    • このあたりに関しては國分功一郎『暇と退屈の倫理学』も参考になる。


  • 補遺に、個人的にとても好きな言葉があるので取りあげておく。
    「プラネタリウムは、宇宙という巨大な時計を模したものだから、時計装置の冠たるものと見なすことができる」
    • そんなこと考えたこともなかった。でも確かにその通りだ。というか1950年代にもプラネタリウムってあるんだ。
      • 調べたら、1923年に世界初の光学式プラネタリウムが完成したらしい。
      • しかもユンガーの故郷たるドイツで。
      • 当時のユンガーは28歳か。すこし感じ入るものがある。

  • 最後に、本筋から少しそれるが、この人の世界へのまなざしがよく現れている一節を引きたい。
    「ひとつの文明にとって、限界は発明におとらず重要である。さまざまなモティーフがつねに調和を保たれていなければならないからである。一定の音や色や形が拒まれていることは、他の一定のそれらが選ばれ用いられていることにおとらず、その文明の様式を規定しているのである」

    p.100

  • つまり、どちらが優れているかではなく、それぞれをそれ自体として見る観察眼。
    • その眼を世界理解の姿勢と言いかえてもいいだろう。
    • これが1954年ということには驚く。レヴィ=ストロースにも通ずる見方だ。
  • この音楽サイト、世界の音楽を聴くリスナーの身としても、とても実のある言葉だ。




関連作品

まずは「時間」から3つ。

古典的名著。「時間どろぼうと,ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子モモのふしぎな物語」とはまさに本書の関連作に相応しい。歯車時計の世界、その先にあるものを寓話として描き出した、とも言える。


ハイデガーの退屈論で第一形式として例示されるのが「駅で列車を待つ時間」。これはまさに「時刻」(表)に縛られて「行為」がない状態で、その空白を「退屈」だとしている。古今の知見から思索していく読み味も近く、さらに世界を広げていけるだろう一作として是非オススメしたい。また「人間はいつから退屈しているのだろうか」は『モモ』からのサイドステップとしても読める。


精神科医である著者による、日本の古典的時間論のひとつ。ここでは時間が「もの」と「こと」の2つに区別される。ユンガーが取りあげた「歯車時計の時間」は「もの」である。そして木村は、時間は本来「もの」ではなく「こと」だと切り拓く。時間に関する世界観を立体的に捉える意味でぜひオススメしたい。

ちなみに自分は、一応読み通しはしたが半分も理解できたかあやしい。ここで挙げた本の中で一番内容は難しいと思う。ただ、精神科医である著者による「第二部 時間と精神病理」、特異な精神状態にある患者が語る「自身の時間感覚の言語化・説明」は、非常に興味深い。


最後はまた少し違ったところから。

さて冒頭に立ち戻ると、そもそもユンガーが「砂時計」を考えようとしたのは、その砂の山に何かを見出したからだった。そこで本作。「地下鉄の漏水対策の観察」に目覚めた筆者の記録である。直接関係するという訳ではなく、何かにふと惹かれ、あらためて世界を見回しながら自己の思考を深めていく点を、関連作として並べておきたい。

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